たった一夜の、小さなウソ。




煌煌と光る月夜。時計の示す時間は八時。

御近所さんの家からは、夕餉の匂いも匂って来ない。

「……だから実習なんて嫌いなんだ」

口から愚痴が零れ落ちた。でも、それが時間を戻してくれるわけでも、疲労を癒してくれるわけでもないか。

そう思うと、愚痴を言う元気すらなくなってきそうだ。

疲れきった体を引き摺って、何とかアパートの自室まで辿り着く。

勝った……今日も俺は勝ったんだ。この押し寄せ津津波のような疲労感に。

部屋の鍵を開けて、ドアノブに手をかけ、我が愛しの領地への扉を開け――

「ただい――」

帰りの挨拶をそこまで口にして、そこで本能的に手が止まった。

……何だ?

違和感。

鍵を開けて、ドアを開けて、部屋に入る。そんな身についた日常動作に違和感を覚えた。

いや、違和感というよりはもっと具体的だ。

ドア一枚隔てた向こうに、“何か”を感じる。

誰だ…?

憶測は確信に昇華した。間違いない。これは、人の気配……

誰かが、俺の部屋にいる?

「……」

ふと、ドアノブを握ってた左の手首から、腕時計がこぼれ見えた。時計の文字盤に備え付けられたカレンダーが、今日が4月1日なことを告げてる。



あぁ、そうか。



ガチャ――

今度こそドアを引き、その影に隠れるように自分も一緒に後ろへ。



「おっっかえり〜〜っ!!ケイく」



ゴンッ!!――



突然アパートの廊下に響いた女の子の声は、とてつもなく痛そうな鈍音にかき消えた。

案の定というか、予想通りというか、やっぱりやらかしたか…

「……大丈夫か、サクラ?」

ドアの影から顔を出すと、そこにはコンクリの廊下に突っ伏した従妹(いとこ)の姿があった。しかも顔面からいっちゃってるなぁ…

「ぅう……」

お、起き上がったぞ。

「ヒドイよ慧君!せっかくの感動の再会を見事に壊してくれちゃって!」

「俺があのままドア開けてたら、押し倒された挙句廊下に後頭部を強打しかねなかっただろ。正当な自己防衛だ」

「でもわたし、鼻打った…」

「自業自得」

「ぅう…なんか冷たいね、慧君。慧君には二年ぶりの再会を喜ぼうって気は無いの?」

「少なくとも、こういう自傷を伴う過激な喜び方は出来ないな」

「ぅう……やっぱり慧君冷たくなった」

俺の態度に、段々いじけ出す櫻。……少し意地悪が過ぎたかな?

「ほら、早く部屋入れよ」

「……うん!」

それで機嫌を直したんだろう。数秒目とは打って変わって明るい笑顔で答えた。

パタン――

「ん?これ…」

玄関をくぐった途端、実にいい香りが鼻をくすぐる。

「あ、また台所借りちゃった。余計な事、だったかな…?」

そっか。こいつが俺の部屋に上がりこんで、何もしないはずが無いもんな。

「いや、助かる。このところずっとインスタントだったから」

「またレトルト漬けだったの?駄目だよ!ちゃんと栄養あるもの食べなきゃ!」

「一人暮らしの不器用な男には難しい注文だな」

「全く…。叔母さん心配じゃないのかなぁ……?」

などとぶつくさ言いながら、櫻はテキパキと用意してあった夕飯を温めなおし始める。



その後姿が、とても儚くて――



「…なぁ、櫻」

「ん?なに?」

「カラダ、大丈夫なのか…?」

味噌汁の中で混ぜていたお玉。それを持つ櫻の手が、一瞬停まるのが見えた。

「……うん」

短くそう答え、櫻は再び手を動かす。

「大丈夫だよ!去年は失敗しちゃったけど、今年はちゃぁんと騙せたし♪」

櫻はこっちを振り返りながら悪戯っぽく舌を出す。

温まった夕餉の匂いが、狭い部屋を満たす。それらが食卓に並ぶまでは大した時間は要らなかった。





「それでね!その時わたしの友達がさ」

「どうなったんだ?その子」

夕餉を済ませ、俺と櫻は互いにベッドに腰を下ろして、互いの話をした。

なにせ二年ぶり、久しぶりに会った従妹だ。俺の話題は櫻を飽きさせなかった。

そして、“本当なら”、櫻の話の種だって尽きない。

「その子、ね!……」

「……? 櫻?」

不意に、櫻が言葉を綴じた。

「その子は…………。…楽しく、ないよね。こんなおんなじ話してもさ」

「……」

そう、櫻の話はいつも同じ。

まるで歴史の跡をなぞるように、繰り返し繰り返し、彼女はそれらの話を俺に聞かせる。

櫻には、新しい話の種なんて無いのだから。

でも――

「楽しくなくなんか無いぞ」

「……無理しなくていいよ、慧君」

何を勘違いしてんだか、櫻は俯いて櫻は塞ぎ込み始めた。

…ああもう、何でこいつはこう直ぐにいじけんだ!?

「無理だったら最初から聞いてない。その話、お前が生きた跡だろ?だったらそれが面白くないわけ無いだろ」

「慧、君……」

見上げてくる顔はどこか淡く、自然と心が穏やかになった。

「…ん」

唇に、柔らかい感触が触れる。どっちが求めるんじゃない。互いに互いを確かめるための、キス。

「んぁ……は、ん…」

口の中に、生暖かい感覚を帯びた“それ”は侵って来た。

ひどくおっかなびっくりで、遠慮がちな侵攻に、俺も応える。

「はぷ……ん」

歴史の跡なんかじゃない、今此処だけの新しい時間と感覚。

唇をはみ、舌を絡ませ、互いに得る快楽。

俺が此処にいることを、彼女が此処にいることを認め合う。

「…っぷは、はぁ……ねぇ、慧君…」

「なに?」

「また……来年も来ていい?」

「ああ」

即答した。そんな事、決まってる。

「また……晩ごはん作っていい?」

「ああ」

櫻が一つ一つ、言葉を、願いを重ねる。

「また……………キスしていい?」

「ああ」

呟く彼女の体は希薄。もう、時間が無いみたいだ。

「……ありがとっ!」

「しっかり嘘、ついてこいよ」

「うんっ!!」

目頭に涙を溜めながら、彼女は嬉しそうに笑って消えた。





俺の従妹は真面目な奴だ。

ふざけた所はあるけれど、優しい奴で嘘がつけない。

四月一日慧エイプリルフール

あいつは自分に嘘をつく。

嘘をつくのが下手なくせして、無理して自分に言い聞かせる。


『わたしは、まだ死んでないんだよ?』


それは――たった一夜の、小さなウソ。

FIN