――それは、まだ寒い冬の季節。
珍しく先程から降り出した雪が、校舎を、グランド、道を、街を白く包んでいた。
そして、白に彩られたそれらや、灰色の空から舞い降りる雪すらも、今の俺を祝福してくれているかのように感じる。
バッ――
愛用のこうもり傘を開いて、校舎を後にした。
振り返り、さっきまで俺を
定期試験と言う名の足枷が消えた今、あんなものに括られることも無くなったのだ。その事を考えただけで、足取りが自然と軽くなる。
喜び勇んで進む足付きで、いつもの裏門へと歩を進める。
裏門に人気は無い。
殺風景で作りは簡素。正門と違って商店街に近いわけでもなく、使い勝手は酷く悪い。
そんな場所を好んで使うのは、俺みたいな物好きくらいだろう。
「……ん?」
……どうやら、その物好きが近くにいるらしい。
目の前に広がっていたのは、雪たちが作り上げた純白の絨毯。
そこには、まだ新しそうな足跡が浅く刻まれていた。
(少し、勿体無いな……)
ググッ――
少し躊躇しながらも足を絨毯に踏み入れると、足に確かな手応えが返ってくる。
その感触を楽しむ間も無く、俺と物好きな誰かは対面した。
校門の側に佇んでいたのは、女子だった。
傘も差さず、雪の中でただ佇んでいる女の子。
三つ編みに結った長い髪から覗く、あどけなさそうな顔と、襟元にまかれたのスカーフが、俺の後輩――一年生なのだと教えてくれた。
「あっ……」
彼女の前を横切る折、俺たちの視線がかち合う。
「………っ!」
俺の顔を見るや否や、彼女は慌てた仕草で顔を背け、視線を逸らした。
その態度が少し気に食わなかったけど、そんなつまらないケチをつける気も無い。
結果、校門で佇む後輩を関心の範疇から追い遣って、学校を出――
「あっ、あの!
不意に叫ばれた自分の名前。追い出したばかりの関心が自ら舞い戻ってきた。
振り返れば、さっきの女の子が駆け寄ってくるところだった。
「これ……う、受け取ってくださいっ!」
半ば押し付けられるように“それ”が俺の手の中に渡される。
「あ、あの…その……こ、こんないきなり……ごめんなさいっ!」
何でこの子が謝ってるのか、それを理解する間もなく、彼女は俯きながら走り去ってしまった。それこそ正に脱兎の如くだ。
雪の街に消えた、見知らぬ後輩。
彼女に渡された“それ”を片手に、俺はしばらく雪の中で突っ立っていた……
――それは、まだ寒い冬の季節。
残る心。伝わる想い。
「…ってことは、これは斜方投射なんだから、初速度θを求めるには公式を変形してやって……あぁ、クソッ!」
目の前に広げられた問題のプリントに、思わず突っ伏す。
「……何やってんだろ、俺…」
春休みの誰もいない教室に響く、実に下らない自問。こんなことしてても、目の前の問題は片付かないって言うのに。
それでも問わずにはいられない。さもないと俺自身がどうにかなってしまいそうなのだから……
「しー・ずー・みー・ねーっ!」
…そんな心境を知ってかしらずか、そいつはやってきた。多分、俺の
「…何の用だ、
「つれないなぁ。せっかく唯一無二の大親友が来てやったっていうのに」
「生憎と俺は、補習を邪魔しに来る輩を友人と分類しちゃいないんだ」
「例えキミとの間に巨大な障害が立ちはだかろうとも、僕らの絆を断つ事は神々とて不可能なのだっ!」
「ああ…そうかい……」
案の定、よく分からないテンションで飛ばしまくる自称大親友に、俺の残り僅かな気力は根こそぎ殺がれてしまった。もちろん、“これ”にツッコミを入れる力も残ってるわけが無い。
「……随分と苦戦してるみたいだな」
俺の疲弊振りを悟ったのか、瀬中は奇特なテンションを落として接してくる。
ああ、こいつにもまともな心があったんだ。
とりあえず、腕の下で下敷きになってたプリントを突き出してみた。
「学年末の物理か。追試ってわけじゃないのか?」
「それと現社が赤点スレスレ。で、今回めでたく補習に引っ掛かった」
「それでこんな春休みに登校ですか。泣かせるねぇ」
「あとで好きなだけ泣いてくれ。お前はまた部活か?」
見ると瀬中の服は、明らかに俺の着てる制服とは違っていた。
青いシャツに揃いのハーフパンツ。シャツは白のローマ字で校名が刷られてた。何度か見たことのある、バスケ部のユニフォームだ。
「まぁな。大会も近いし、今日も今朝から。今は昼休みだけどな」
「え?もうそんな時間か?」
教室の壁に掛かっていた時計の針は、既に十二時半を回っていた。
そういえば、さっきから胃が空腹感を訴えてる。
「そんじゃ、昼飯にでもするか」
机の上を片付け、バックの中からパンを数個とブリックパックのコーヒーを取り出してから、その中の一つをパクついた。
「――ほぅひゃあふぁあ…」
「…瀬中、お行儀悪いから飲み込んでから話しなさい」
いつの間にか俺の机の上に広げた弁当を貪りながら吠える友人を諭す。
「ん、んく……っはぁ、そう言えばさ、そろそろだな」
「何が?」
「何がって…ホワイトデーだよ、ホワイトデー!」
「……それは俺に対する挑戦状と受け取って良いか?」
中々のチャレンジ精神に満ちた発言をする瀬中に、敵意を剥き出しにしてぶつけてやった。
「そ、そんな怖い顔すんなって。万年0個の浄峰クンも、今年は貰えたんだろ?」
「そりゃ……まぁ、そうだけど……」
「……まだ、見つかってないのか?その
「ああ」
口の中に残るパンの欠片をコーヒーで押し流す。
一ヵ月前、裏門で逢った女の子。
名前も告げず、走り去って行った不思議な子……
気にならないわけがなかった。
気にしないなんてできなかった。
会ってみたい……会って話しをしてみたい。
それでも、後輩達になんら面識の無い俺にとって、人探しには限界があった。
「……っはぁ、見つからないなら見つからないで、何で僕に相談の一つもしてくれないかねぇ?お前さんは」
お茶を呷り、溜息交じりに吐かれた友人の言葉の意図を、俺はつかめなかった。
「何で、って……何で?」
「あのなぁ……紛いなりにも僕ら友達だろ?更に僕は男女共、後輩に顔が広い。これだけ好条件が揃ってるんだから、使わないでどうする。遠慮しすぎなんだよ、お前は」
そこでようやく分かった。分かった途端、苦笑が零れた。
こいつはこいつなりに気を遣ってくれてるんだって。
「それじゃ頼むよ、瀬中」
「おぅ!我が友の淡き恋路、咲こうが散ろうが見届けてやろう!」
……本当に気を遣ってくれてるのか、今更ながら不安になった。
「でも良いよなぁ、浄峰は」
「良いって何が?お前だって貰ったんだろ?」
「全部で四十七個。貰う量が多過ぎて、返すのが一苦労なんだよ。ほら、僕って成績優秀、運動優良、容姿端麗、品行方正だし」
まぁ、こいつが大量に貰ってるのは事実だしあれだけ無茶な四字熟語が全部当てはまるのもそれはそれで事実なんだけど……
「自画自賛も此処までくると極みの領域だな」
「それが僕の行き方なのさ!」
……ほんとうに相談役がこいつでよかったのか、今更ながら不安になった。
◆
「っふぅ……」
家に帰ると、挨拶もそこそこに自分の部屋へと閉じ籠った。
バフッ――
ドアを閉め、通学バッグを適当に放り、そのまま倒れこむみたいにベッドへダイブ。
「……疲れた」
途端、どっと溢れ出て来た疲労感に我が身を委ねた。
制服のままだと言う事に気付いて皺が出来るかと懸念したけど、着替えるのも億劫だ。
結局あの後、瀬中は部活に戻り、俺の補習プリントは終わることなく、明後日再び登校する事を運命付けられたのだ。
よくよく考えてみれば、瀬中のヤツは頭良いんだからあの時手伝ってもらえばよかったのに。
教室でその事に気づいた時には、自分の浅はかさを何度呪ったことか……。“後悔先に立たず”とはよく言ったもんだ。
「やっぱり、頭脳労働なんか似合わないよな…」
だからと言って、運動や肉体労働が得意とは限らないんだけど。俺としてはむしろ、そっちの方が苦手な分野だ。
「………」
制服の皺は最早完全に諦めて、突っ伏した姿勢から仰向けに寝転がった。
目前が、見慣れた天井で埋め尽くされる。
(………なんであの子は、俺なんかに…)
昼間の事もあって、ふとそんな事を夢想した。
自慢じゃないが、俺には自分の秀でたものなんて一つも思い当たらない。
瀬中のように万能な人間とは程遠い。
頭が良いと言うわけでもない。成績は万年、中の中。
顔立ちが良い方だと思えない。他人が言うには、目つきが多少悪いらしい。
人付き合いは悪くはないが、進んでしている方じゃないし、委員会や部活をしているわけでもない。
『
「だって言うのに……」
首を回し、視線を天井から机に移す。
目に入ったのは、青と白で彩られた一本のリボン。
少し気に入って残したそれは、一ヵ月前、同じような柄の包みに巻かれていた。
包みの中に入ってたのは、四つのトリュフチョコ。
大きさもまちまちで、形も歪。噛んだら結構固くて――
……でも、美味しかった。
初めは、何でこんなものがって、俄に信じられないでいた。まして、知らない後輩から貰った事が、なお更現実感を遠退かせた。
「でも……貰ったんだよな」
あの食感も、あの味も、思い出せる。
(何であの子は……)
再び思いを巡らすが、答えらしきものは見つからない。
疑問、模索、回想、疑問……。思考が無限にループする……
「槙人ぉー!ちょっと手伝ってぇーっ!」
「…!」
繰り返し続けていた考えを寸断したのは、リビングからの母の声だった。
「槙人ぉ〜!?」
「ぁ…あぁっ!今行く!」
体を起こし、部屋を出ようとノブに手を掛け――
ドアに掛けてあったカレンダーに目がいった。
『そう言えばさ、そろそろだな』
『何がって…ホワイトデーだよ、ホワイトデー!』
昼間の瀬中とのやり取りが、頭の中に再生される
「ホワイトデー、か…」
カレンダーは、明日の日曜日を挟んで月曜日がその日であることを訴えてた。
「……よし」
「ちょっと槙人ぉー!」
「はいはい!」
ちょっとした決意と、ちょっとした快さを抱え、俺は急かされながら部屋を出た。
◆
白い、白い世界。
何も見えない、何も掴めないほど、白濁とした場所……
…ん…い……――
散り散りになって朦朧とする意識を、必死に掻き集める。
…ずみねせ…ぱ…――
集う自分
褪める世界。
浮かぶ面影。
………届く声。
私は、先輩の良いところ、いっぱい知ってますよ――
薄くなる白に浮かんだ姿には、見覚えがあった。
鮮明になって聞こえてくる声には、聞き覚えがあった。
君は……
それに、先輩は――
その先の言葉を耳にした途端、白の世界は弾けて散った……
◆
ピピピピピピピッ!――
バシッ――
甲高い電子音で鳴き続ける目覚ましを、一撃の下に沈黙させる。
「……」
目覚めの気分は……すこぶる悪い。
理由は…まぁ、何となく分かる。
「なんつぅ夢見てんだ、俺は……」
起床早々、頭を抱えたくなった。
なんて都合の良い夢を……
自己嫌悪に苛まれながら、今日と言う日が動き始めた。
◆
動き出した日曜日。アーケードを歩く俺の回りに現れては通り過ぎて行く、雑多な喧騒。
そんな雑音たちの群の中で、俺は――
「どうしたもんかなぁ……」
――苦悩してた。そりゃもう、手も足も出ないくらいに。
昨日カレンダーを見て買おうと思った目当ての物、ホワイトデーのプレゼントを買うために、繁華街の方まで足を伸ばしたのは我ながら正解だった。この辺なら店も多いし、選択肢にはそう事欠くこともない。
そう、何も問題は無かったんだ。
俺が、何を贈るのかきちんと考えてさえいれば。
「お返しって……一体何贈ればいいんだ?」
これまでこの手の行事に馴染みの無かった俺にとって、何を贈るのが良いのか、と言うのが分からなかった。
目に付いた店は手当たり次第見てみたけど、これと言った目ぼしい物は見つからない。
そうこうしてる内に、腕時計は三時を示していた。
さっきから疲れてきたとは思ってたけど、成る程当たり前か。
お昼から探し始めたから、もうかれこれ三時間はアーケードの中を行ったり来たりしてる事になる。
「どっか休めそうな店無いかな?」
とは言ったものの、今のところそんな気の効いたお店には巡り会っていない。見かけるのはみんな、ファーストフードか定食屋、居酒屋くらいだ。昼を済ませた俺の胃には少々酷過ぎる。
仕方なくアーケードの大通りは諦めて、適当な脇道に入った。
その時だった。
まだ冷たい空気に乗って、それが嗅覚をくすぐったのは。
甘く、香ばしい、良い匂い。
場所は……近い。
好奇心と探究心に負けて、気がつけば足が勝手に進んでた。
香りの流れを遡って、、その源を探す。歩くにつれて鮮明になっていく香り。つられて歩幅が大きくなる。
「ここか」
アーケードから少し離れた路地裏の一角に、匂いの源はあった。
レンガ造りの小さな家。玄関には“Open”の札が下げられ、『Cafe“Ring”』と書かれた看板が置かれてる。
「喫茶店、か」
ちょうど良い。
チリンチリィン♪――
ドアに備え付けられたベルを鳴らしながら入店する。
店内をざっと見渡す。
決して広いとは言えない店の中には、カウンター席とテーブルが幾つか。木造主体の内装は少しモダンな感じで、“お洒落なカフェ”と言うよりももっと落ち着いた雰囲気を漂わせる。
加えて、照明の落とされた暗い店内と、人っ子一人いない静けさがより一層その雰囲気を――……って、あれ?
「
ムードを出すどころか、全く付いてない照明とか、誰も客が居ないところを見る限り、どう考えてもとてもそんな感じには思えないけど……
「お客さん?」
「――!?」
突然聞こえた声に慌てて反応する。
暗いカウンターの奥の方から聞こえた声は、女性のものだった。
「ごめんね、今
「に、逃げっ!?」
「はは、まぁ珍しい事じゃないんだけどね」
何だか聞き捨てならない言葉にも、苦笑交じりで軽く答える声。
いや、いいのか?そんなんでいいのか?この店……
「まぁ、かかってはいたけど、“
追求したい気持ちをどうにか抑えて、質問の返事を返す。
「!? あの
パチッ――
軽い、弾けるような音と共に淡い光が店内に満ちると、互いの姿が光の下に晒される。
「折角来てくれたんだし、簡単なのでよければどうぞ」
そう言って、声の主――白黒のエプロンドレスを着込んだ、赤毛のミディアムボブの女性は、俺をカウンターまで招いた。
「えっと、それじゃあ、アメリカン」
「はいはぁい♪」
陽気に注文を承ると、店員の女性はいそいそとコーヒーを淹れ始めた。
何と言うか……面白い人だ。初めて会うのに、こんなに人当たりが良いなんて。
その人懐こさも、不思議と煩わしさを感じさせない。それどころか、俺より年上なようだが、まるで友達と話してるような気楽さが在る。
「あ、そうだ」
唐突に、何かを思い出したように店の奥に消える女性。暫くして戻ってきた彼女は、その手に少し大き目の盛り付け皿を持ってた。
コトン――
目の前に置かれる皿。その上には――
「クッキー?」
「食べて良いよ。大丈夫、別にそれでお代取ったりなんかしないから」
「………」
半ば半信半疑になりながら、クッキーを一枚取り上げて口にする。
「これ……」
口に入れた入れた途端に広がった香りは、あの外で嗅ぎ取ったものと同じ。
あれは、これの匂いだったんだ。
美味しい――
ただ素直に、そう感じる。
「その分だと気に入ってくれたみたいね。はい、アメリカン」
カップとソーサーを受け取って置き、もう一枚クッキーを頂く。
「良い香りでしょ?香り付けの隠し味に、スィートバジルを使ってるの」
「これか、その匂いは」
食べる度に広がっていく香り。その中に一際目立つものがあった。
甘く、爽やかな香りは、このハーブのものだったらしい。
これなら……
「これ、包んでもらえないか?」
「え?そりゃまだ残ってるから構わないけど……お持ち帰りしたいくらい気に入った?」
「いや、そういうわけじゃなくて」
確かにお持ち帰りしたい気持ちが無いわけじゃないけど。
俺は話すことにした。雪のバレンタイン、傘も差さず待っていた見知らぬ少女の事を。彼女に贈るプレゼントをずっと探し回っていた事を。そして、このクッキーを贈りたいと思った事を。
こんなこと、普通なら
それでも、この
「却下」
…やっぱり気のせいかも。
「即答かよっ!?なんで!?」
「君ぃ〜……確かに、今アタシの作ったのを持って帰るのは簡単な話ね。でも、今の話聞くからに、その
キッパリと言われ、内心が僅かにドキッとした。
「って言われても、それじゃ他のどこで買っても同じじゃないか」
「そ。どこで“買って”も同じ事。それなら――」
あ、なんかヤな笑顔。
「此処には運良く、場所も、道具も、材料も揃ってる。此処までくればやることは一つなんじゃない?」
「ぇっと〜……俺、料理って作らない方なんだけど…」
「そのための先生もいるじゃない♪」
何が嬉しいんだか、満面の笑みで微笑む。
「……はぁ」
……今日は帰るのが遅くなりそうだ。
◆
「お疲れサマっ!」
店の前で店員の女性は、えらく満足げな笑顔で言った。
「ホント、疲れたよ……でも」
「ん?」
「――ありがと」
抱えてた、まだ温かさの残る紙包みを軽く掲げてみせる。
「ははっ、随分失敗したもんねぇ。まぁ出来てなにより。今日はもう遅いから、早く帰りな」
そういえば、辺りはすっかり日が落ちてる。
彼女の言うとおり、急いだ方が良さそうだ。
「それじゃ、また来るよ」
きびすを返し、アーケードへの道を歩き始め――
「ねぇ、スィートバジルの花言葉って知ってる…?」
「えっ?」
本当に、いきなり投げかけられた問いに、思わず振り返る。
「“好意”や“愛”、よ」
―――なっ!?
「ふふっ、頑張れよ、少年!」
パタンッ――
悪戯っぽい笑みと、エールとは取りづらい言葉を残して、彼女は扉の向こうへと消えて行った。
何もそんな事今教えてくれなくても。
知った以上、変に意識してしまった自分が恐ろしく恥ずかしい……
ヴヴヴヴヴ――
ポケットに入れてた携帯が軽く揺れた。
二、三度ほど低い音を立てて、振動は止まった。きっとメールの方だ。
カパッ――
「瀬中から?」
友人から届いたのは、題名も無く、本文も「この子か?」とだけの、ひどく簡単なメール。
「なんだ、これ?」
メールにはファイルが添付されていた。そのままファイルを開く。
「あ、っ……」
添付されていたのは、写真だった。
うちの学校の制服を着た三人の女の子が、無邪気にじゃれあってる。
そして、その三人の中にあの子はいた。
後から飛びつかれ、驚いた
トゥルルルル、トゥルルルル――
すぐさま電話帳からあいつの番号を呼び出して、電話をかける。
あまりにいきなり事で、少し興奮してるみたいだ。呼び出し音の鳴る間ももどかしい。
『もしもし』
電話に出た声は、間違いなく瀬中だった。ただ、声にいつもの勢いが無い。
「瀬中か?俺だ」
『ああ、メール見たんだな。それで、どうだった?』
「当たりだ。左端の抱きつかれてる子。よくこんなに早く見つかったな」
『お前の事を気にしてる、長い三つ編みの髪をした子、って聞き回ったら、後輩達直ぐに教えてくれたよ。彼女、有名だからって』
「有名?そうなのか?」
問いかけに、自称大親友は答えない。
何だ…?いつもあんなに明るいこいつが此処まで沈んでるなんて、初めてだ。
ここまで大きすぎる変化だと、変を通り越して、少し不気味に感じる。
「瀬中…?」
『浄峰………本当にこの子から、バレンタインに貰ったのか…?』
普段なら決して聞けないようなハッキリとしない瀬中の態度が、俺を次第にイラつかせる。
「だからそうだって!一体何だっていうんだ!?なんか変だぞ、お前!?」
『………』
瀬中は少し黙ってから、まるで意を決したように話し始めた。
『この子は“
「俺の?」
気付かなかった。そんな子が俺の後輩にいるなんて……
「彼女、この春休みに出てきてるのか?」
一番大切な事を瀬中に問い質す。とうの彼女が来なければ、このお礼も渡すに渡せやしない。
『それは……』
まただ。また歯切れの悪い答え。
そして、再び瀬中が重苦しい口を開く。
『その子――』
同時に俺は、あいつの言ってた“有名”の意味を知る事となった……
「…………えっ?」
◆
そこは、俺の家から数分も無い場所だった。
俺も時々使う道。大通りというわけでも、かと言って小さいわけでもない、中途半端に大きい十字路。
その十字路の片隅に、在った。
すすで黒く塗れた、造花の花束が。
「………」
道端に供えられた黒い花束を認めた瞬間、ここまで走って乱れきってた息も、さっきまで感じてた焦燥感も、全部が全部、嘘みたいに消えていた。
電話の向こうで、瀬中の言った言葉が甦る。
彼女は、唯純留衣は、“三ヵ月”も前に此処で起きた交通事故で亡くなっていた。その時の流れは、この黒い花たちがしっかりと刻んでいる。
「…ごめん、何も気付けなくて」
しゃがみ込み、持ってたハンカチで一本一本花のすすを取り払う。
口から漏れたのは、自責の念。
彼女の存在も。彼女の気持ちも。彼女の死すらも。何も気付かなかった。
あの日初めて逢って、彼女を初めて知った。彼女は、もっと前から俺の事を見ていたというのに。
これだけ長い間近くにいて、彼女に何一つ気付かなかったことが、ただ情けない。
『先輩は――優しいじゃないですか』
夢の中で聞いた言葉。あれは、本当に君だったのか…?
「俺は……そんなんじゃないよ」
零れる苦笑に、応えは無い。
ふと、手に冷たいものを感じた。
「雪……」
見上げた空から舞い降りる、白い雪。
それは、まるであの日のように。
「これ、あの日のお返し。あんまり上手く出来なかったけど……」
すすを取りきった花をもう一度束ね直して、その隣に抱えてた紙包みを置いた。
一日早い、ホワイトデーのお返し。少し不細工な形のクッキーを詰めた紙包みを――
立ち上がり、帰途につこうと踵をめぐらせた。
やっぱり、先輩は優しいです。
声は、ハッキリと耳に届いた。
だから自然に振り向ける。
「チョコ、美味しかったよ。留衣ちゃん」
伝えたかった言葉を、ようやく伝える。
微かに舞い散る雪のように淡く、少女はそこに
稀薄な両手で大切そうに紙包みを抱いて、優しく微笑んだ少女。
俺が、あの雪の日に出逢った少女。
その笑顔が嬉しくて、俺はやっと笑える事が出来た。
君に、微笑みかける事が出来た――
――ありがとう、先輩――
FIN